おはようございます。
日曜日の今日は(二日酔いだし)仕事のゴリゴリした話をお休みして、これといった結論もない日記を綴りたいと思います。
今でも覚えてる
今日はnoteで『映画 えんとつ町のプペル ~約束の時計台~』の脚本(第三稿)を公開します。
この物語は絵本『チックタック ~約束の時計台~』が下地になっていて、御存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、絵本『チックタック ~約束の時計台~』は、22~3歳の頃のキングコングの物語が下地となっています。
梶原君が失踪した日のことは今でもよく覚えています。
19歳でデビューして(幸か不幸か)すぐに売れた僕らには、ネタの引き出しも、トークの引き出しもなく、どこに出ていっても連戦連敗。
19歳の頃には、いくつか自分達の番組を持たせていただいていましたが、そういえばよく「MCがヘタクソ」と言われたもんです(笑)。
皆さん高校の文化祭でも3年生がクソ棒読みでモジモジとした司会をしていたと思うのですが、彼らがそのままテレビに出ていたような感じ。
しかし、一度ステージに立つとプロとして見られてしまうので「いや、半年前まで高校生だったんですけど…」という言い訳は通用しません。
なので、毎日「朝から翌朝まで仕事」というスケジュールでしたが、移動時間はとにかく勉強勉強勉強。
タモリさんや、明石家さんまサンや、ダウンタウンの浜田さんや、いかりや長介さんや、フットボールアワー後藤さんの「受け方」を徹底的に真似るところから始めました。
ネタを作る時間がないので(毎週2本の新作漫才と、毎月30本のショートコントを作らなきゃいけなかった)、番組収録でロケVTRを観ている間や、それこそ漫才中に新作漫才を頭の中で作っていました。
突貫工事もいいとこです。
僕はたまたま「力でねじ伏せるっきゃない!」というモードに入ることができたのですが(勝ち気な性格)、その一方で、梶原君はどこかふてくされているようでした。
「一つも得をしないからやめた方がイイ」と何度言っても、金髪ロン毛を貫く始末。
ネタ作りなどは一切せず、仕事終わりはパチンコと麻雀。
#何歳からグレとんねんww
「カジ(梶原君の相性です)…こんなチャンスはもう二度と巡ってこないから、シンドイかもしれないけど、今は頑張った方がいい」
「カジ…今、僕らが乗っている波は、お笑い界で10年に一度あるかないかの大波だから、ちゃんとネタ合わせをしよう」
「相方の言うことは聞きたくない」という若さも手伝って、言えば言うほど、ふてくされて、梶原君の気持ちはどんどんお笑い(エンタメ)から遠退いていきました。
しかしまぁ、努力は嘘をつきません。
結果は残酷なほど正直に表れて、僕は少しずつテレビや舞台の立ち回り方を覚えていき、少しずつですが先輩方の球を打ち返せるようになっていきましたが、(今でこそネタにしていますが)梶原君はどの番組に出ていっても置物のように座ってるだけ。
せっかく話を振られたと思ったら、そのパスを引き受けずに逃げてしまう。
「ウケたい」というよりも「スベりたくない」という気持ちが勝っていて、ついには「なるべく話を振られないように、司会者と目線を合わせない」という奇妙な技を身につけていました。
繰り返しますが、「努力」というものは残酷です。
努力をすればするほど、結果が出なかった時に、自分の才能の無さを受け入れなきゃいけなくなる。
梶原君は「努力をしない」→「結果が出ない」→「さらに努力をしないことで、結果が出ない言い訳を作る」という負のループにハマっていて、みるみる落ちこぼれていき、ついには事前に渡しておいたネタを覚えてこなくなりました。
まだ若かった僕には、それを受け止めるだけの器がありません。
「お前が寝てる間に、お前がパチンコに行っている間に書いたネタやぞ!せめて、覚えるぐらいしてこいっ!」
と思っていました。
気がつけば、コンビの会話は無くなっていて、話すのはネタ合わせをする時ぐらい。
一度僕が梶原君のパートをやってみせて、「これを、そのままやって」という(プライドを傷つけるような)ボケの渡し方。
それでも漫才コンクールに出れば優勝していたので、(まったくもって不毛な)コンビの上下関係ができあがってしまいました。
今ならなんとかできましたが(そもそも梶原君がテレビでスベってるの面白いし)、当時は僕もいっぱいいっぱいで…
それから、梶原君がネタを覚えてこない日は、日に日に増えていきました。
ネタ番組の収録10分前になっても覚えていなくて、「もうアカン、もう無理…」と僕の隣で呟いています。
とっくに壊れていたのでしょう。
その日は、朝5時まで文化放送(東京)で仕事をして、ホテルに荷物だけ取りに行き、始発に乗って大阪へ。朝8時半に新大阪集合でロケ番組の収録があったのですが、時間になっても梶原君が来ません。
マネージャーから「梶原に電話しても、出ぇへんねん。アイツ、もしかしたらホテルか新幹線で寝過ごしてるかも…」と連絡があり、僕は、
「あ。終わったな」
と思いました。
毎日一緒にいるので、今ここに、梶原君が現場に来ていない理由が「寝過ごし」じゃないことぐらい分かります。
朝から集まってくださった番組スタッフさんに、すぐに謝罪しました。
「本当にすみません。梶原はもう来ないと思います。すみません」
この日の景色や気温や天気は、今でもよく覚えています。
この日、結局、自分一人が頑張ったところで、どうにもならないことを知り、「どこで歯車が噛み合わなくなったんだろう?」と考えました。
もちろん梶原君の無事も願いました。
数日後、吉本興業から各メディアに『キングコング活動休止のお知らせ』が行き、僕は大阪にある家のテレビでそのニュースを観ていました。
レギュラー番組は全て終わり、昨日まで真っ黒だったスケジュールは真っ白。
春から始まる予定だったキングコングの新冠番組は、冠名だけが先輩コンビの名前に差し替えられて、スタートしていました。
外出すると週刊誌に好き勝手に書かれるので、3ヶ月間、何をすることもなく、ひたすら大阪のマンションの一室に籠っていました。
「今しかできないことをやろう」を思ってみたものの、結局、何も手につかず。
『映画 えんとつ町のプペル ~約束の時計台~』に出てくる「大丈夫。時計の針は必ず重なるから」というセリフは、その時の自分に向けて書いたものです。
今回も、また、ものすごーく個人的な物語を書いてしまいましたが、今、あの頃の僕と同じような思いでいる人に届くと嬉しいです。
もし良かったら、読まれる前と、読まれた後に、それぞれ一回ずつ、このリンクを貼って、「#えんとつ町のプペル」をつけて、Twitterで呟いていただけると嬉しいです。
皆さんの感想を見ながら、脚本をブラッシュアップしていきたいと思います。
#はやく感想を聞きたいな
#noteに「いいね」しといてね
それでは、素敵なハロウィンをお過ごしください。
西野亮廣(キングコング)
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