次回作のビジネス書『僕たちはどう生きるか?』の第3章の原稿の一部です。
「西野テメー、ずいぶん前からオンラインサロンに原稿をあげているけど、これだけあげたらオンラインサロンメンバーは、もう買う必要もなくて、買わないぞ」という声が聞こえてきそうで、おっしゃる通りだと思うので、ここに原稿を無料公開する代わりに、売れる方法を皆で考えてくださーい。
宜しくでーす。
『モノが溢れている時代の贈り物について』
はじまりは、2017年の夏の下北沢。
友達らと下北沢で呑んでいたら、オンラインサロンのメンバーから「今から、店に行かせてもらってもいいですか? 企画をプレゼンしたいッス」と連絡が入った。
聞けば、ボクらが下北沢で呑むことを見越して(生放送の終わりが下北沢だった)、わざわざ奈良から新幹線に乗って、下北沢界隈でスタンバイしていたという筋金入り。
「『友達と呑んでるからダメ』と断られるかもしれないのに、奈良から新幹線に乗ってやって来た」というと美談だけど、その彼女は「そこまでした人間をボクが切り捨てるわけがない」というところまでを見越して来ているので、一枚上手。もちろん、呑みの席に合流した。
ずいぶん下手くそなプレゼン資料を片手に彼女は言った。
「要らないモノを『要らない』と言える世界を作りたいです」
これには非常に共感した。
たとえば、ボクみたいな仕事をしていると、お客さんから『差し入れ』をいただく機会が少なくない。
だけど、『差し入れ』を全て受け入れてしまうと、たとえばそれが「食べ物」だった場合、「食べきれない」という事態が起こっちゃう。
ボクはここを決してウヤムヤにはしたくないので正直に言うけど、劇場のゴミ箱にはお客さんからの『差し入れ(食べ物)』が捨てられていることが結構ある。
もちろん、差し入れを捨てたスタッフも、捨てたくはない。
しかし、食べきれずに、賞味期限が過ぎてしまったものは捨てざるをえない。
ボクは戦争をくぐり抜けてきた婆ちゃんにしつけられたので、食べ物を粗末にすることが一番苦手。
もちろん「食べ残す」なんてこともできない。
米は最後の一つぶまで綺麗に食べる。
「全ての差し入れを受け入れる」とした時点で、食べきれなかった食べ物がゴミ箱に捨てられる未来が見えているので、ボクはデビュー当時から徹底して、お客さんからの全ての『差し入れ』をお断りしている。
すると、必ず、こんな声が聞こえてくる。
「差し入れは気持ちだろ! 受けとれよ!」
「気持ちを無下にするのか!」
差し入れた側からの批判だ。
この問題については、デビュー当時から、ずっと訴え続けてきた。
下北沢の酒場まで乗り込んで来た彼女も、そのことを知った上で、ボクに相談してきた。
「差し入れする側と、差し入れを受け取る側のミスマッチ」は、なかなか深刻な問題なんだ。
ボクは阪神淡路大震災の被災者で、ウチはまだマシだったから、週末になると被害の大きかった地域へボランティアに行っていたんだけど、凍えている被災者に毛布をかけたり、お腹が空いている被災者に豚汁を作るハズだったボクらの手と時間は、全国から送られてくる『千羽鶴』の撤去に割かれてしまった。
ちなみに『千羽鶴』の撤去費用は被災地持ちね。
これは東日本大震災でも、熊本地震でも、同じことが起こっていた。
どこの被災地も『千羽鶴』に苦しめられていた。
被災地に『千羽鶴』は要らなかった。
しかし、そのことを言うと、また、あの声が聞こえてくる。
「お前達のことを想って鶴を折ったんだぞ!」
「お前達のことを想って送ったのに、選り好みしやがって!」
贈った側は「良かれ」と思ってやっていることだからさ。
でも、想像力が欠如している正義が一番タチが悪いんだ。
被災者のその声はワガママなんかじゃない。
悲鳴だ。
要らないモノを「要らない」と言うと、攻撃されてしまう。
要らない誕生日プレゼントをたくさん貰っても、部屋が狭くなるだけだし、家に遊びに来るかもしれない友達からの贈り物だから捨てるわけにもいかない。
ただ、「要らない」と言ってしまうと、相手の機嫌を損ねてしまう。
ここで一緒に考えたい。
相手を幸せにするものだったハズの『贈り物』によって、こうして追い込まれている人がいる。
どうして、こんなことが起こっていると思う?
ボクの結論はこれだ。
モノが不足していた時代は、贈り物が相手の幸せに直結していた。
皆、お腹を空かせていたから、食べ物を貰うと、皆、喜んだ。
当然、その時代を生きた世代や、その時代を生きた世代に道徳を植え付けられた世代にとっては、『贈り物』は絶対正義になってしまう。
だけど、今はモノで溢れている。
御飯は今食べなくても、後で食べることができる。
ボクらはなるべく自分達の胃袋を空けておいて、自分の好きなタイミングで、自分の好きなモノを食べたいと考えるようになった。
ボクらはなるべく持ち物をコンパクトにして、手を空けておいて、自分の好きなタイミングで、自分の好きなモノを取りたいと考えるようになった。
食事の差し入れや、贈り物によって、それらの自由をゴッソリ奪われてしまうことにストレスを覚えるようになった。
つまり、「誰が悪い」という話じゃなくて、『モノが不足していた時代』と『モノで溢れている時代』の道徳がぶつかっちゃってんだよね。
それを踏まえて、下北沢の酒場に乗り込んで来た彼女に訊いてみた。
「で、キミが出した解決策は?」
『贈り物の正体』
「誕生日やクリスマスといった記念日に、『商品券』を贈れるアプリを作ろうと思います」と彼女は言った。
商品券……言ってしまえば『お金』だよね。
なるほど、たしかに『お金』だったら、必要な時に必要な分だけ使うことができるし、残った 分を貯金しても、場所をとることもないし、食べ物と違って腐ることもない。
たしかに考え方としては悪くないけど、「あんまり面白くないね」とボクは言った。
理由は二つ。
① 「すでに似たようなサービスが山ほど存在する」
② 「プレゼントの本質は、プレゼントを選ぶ『時間』や、買いに行く『時間』といった、そこに費やされた『時間』にある」
①に関しては、今後、キミが何かの企画をプレゼンする時の最低限のマナーとして、徹底的に調べておいた方がいい。
プレゼンは相手の大切な時間を奪う作業だから、最低限ね。
②について。
たしかに『お金』を貰うと便利だけど、そこに時間が乗っていないことが分かるので、手抜き感(寂しさ)が残る。
ただ、わざわざ奈良から来てくれた彼女の提案に対して「あんまり面白くないね」と言った以上は代案を出すのが礼儀だよね。
お酒も入っていて上機嫌だったので、この問題を解決しようと思った。
「お金をプレゼントされると助かるけれど、そこには『時間』がのっていないので寂しい」という問題。
まず最初に、この問題を解決する為には「プレゼントする『お金』に時間を載せればいい」とボクは考えた。
たとえばキミの誕生日にボクが『5000円』を渡したら、きっとキミは寂しい想いをするか、場合によっては受けとることを拒むよね(梶原なら喜んで受けとるけど)。
だけど、その『5000円』を渡すまでに、ボクがとても長い時間を費やしていたことが、そこに見えれば、キミはその『5000円』を受け取りやすくなるんじゃないかな?
「こんなに時間をかけてくれたんだ。ありがとう」と。
さて、どうやって『お金』に時間を載せようか?
財布に入っている5000円札を渡すだけなら、1秒で済む。
どうにかして、お金に「費やした時間」を載せるんだ。
魔法みたいな話だけど、魔法みたいなことをやらなきゃ面白くない。
というわけで本題です。
ボクが描く未来の話。